私とドスちゃん

職場である某予備校の冊子に書いた文章を晒します。
高校生年齢を対象に文章を書いてます。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


十年ぶりにドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいる。
ドストエフスキー? なにそれおいしいの?」(名前からするとまったくおいしそうではなさそうだけど)という人もいるかもしれないので説明すると、ドスちゃん(以下敬意をもってドスちゃんと称する)は昔のロシアの作家で古今東西の世界文学の頂点に君臨する巨人である。ググって画像でも見てもらえればわかるが、まずはなんといってもヒゲがすごい。いかにも巨人然としている。ヒゲがすごいのだが顔はちょっと寂しそう。
Wikipedia日本語版でその生涯を読むと、賭博にハマって、借金して、締め切りに追われ、忙しいから口述筆記で作品を書いていたりする(しかもその速記係に手を出している)。ちょっとどころか、かなりだらしがなさそうで、ええ本当に文学の巨人なのこのおじさん?って感じだ。(「でもちょっとギャップ萌えかも!」と思ったあなたはすでにドスちゃんという山脈のふもとにいるのだよ…)
私の初ドスちゃん体験は18歳。知人(現代文講師、当時60歳)が『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』を薦めてくれたのだ。ドスちゃんの名前は知っていた。しかし、その名前の重厚感に畏怖の念を抱いていた。一方で気になる存在であった。わかりやすく言えば、先輩のエースに恋する野球部1年の女子マネージャーみたいなもので苗字で名前を呼ばれるだけでもうドキドキというやつである(すみません。凡庸な例をとりあげたかったので敢えてポリティカルコレクトネスに反しています)。まず私は思い切って薄手のためまだ手軽そうに見え、しかも父親の本棚にあって買わなくてすんだということから『地下生活者の手記』を読んだ。次に『罪と罰』。次に『カラマーゾフの兄弟』。大学生になり『白痴』、『虐げられた人々』、『貧しき人々』、『悪霊』(実は『悪霊』は半分読んで挫折してしまった!これはちょっと変な小説なんですというエクスキューズ…)…と時間を見つけてはコツコツとドスちゃんの主要作品を読んでいった。もちろん未熟で妙に背伸びした私にドスちゃんの作品を読みこなせるわけがない。アリが象に、芦田愛菜ちゃんが白鵬に挑むようなものである(芦田愛菜ちゃんのプロ根性なら横綱にも勝ってしまいそうだな…)。しかし、夢中になって読んだ。芦田愛菜ちゃんであるところの私はマルマルモリモリ読んだ。とにかく読んで読んで読みまくった。読みまくりたかった。人間を知りたい。世界が知りたい。自分を知りたい。青臭い若者特有の好奇心があったことは否めない。何かに対する答え、真実めいたものがドスちゃん作品にはあると思ったのだ。読んでいるうちに気が付いたのは、ドスちゃん作品は抜群に面白いということである。深いのに面白い。たいがい世の中の「深そう」なものは面白くないのが相場だ。そういえば校長先生の話とかも「深そう」だったが、たいてい面白くなくて、私は一度もまともに聞いたことがない(というか実際は深くもなければ面白くもないのだが)。そのため「深そう」って深くない、ということに気がついてしまったのである。ああこれは「深そう」だな、まじめな顔してるぞと思うともう退屈してきてしまうのだ。でも、ドスちゃんは違った。深いのに、あるいは深いから面白かった。
 しかし、やたらと面白がるのが気の毒なほどドスちゃんワールドの住人たちは暗い。暗いだけでなくロシアだから超寒そう。暗いし寒いし、鬱屈に生きている。生きることについて悩みまくっている。悩んで悩んで頭の中がいっぱいになる。いっぱいになった悩みが充満して噴き出す。興奮して遂には狂ったような演説をはじめてしまう。しかしその姿が時折、妙に輝いているようにもみえる。苦しみと生きることの喜びが渾然一体となっている。そんな過剰すぎるほど過剰な人たちの住む世界がDCW(ドスちゃんワールド)だった。そこはTDL東京ディズニーランド)よりもずっと私を魅了した。
時は流れ…ドスちゃんとのあの蜜月を過ごした数年後…私とドスちゃんはお互い別々の道を歩んでいた。私の知らぬところでドスちゃんは思わぬ脚光を浴びていた。古典新訳ブームの中、光文社で亀山郁夫の新訳が出たのである。しかもドスちゃんの代表作『カラマーゾフの兄弟』の新訳は数十万部売れ古典文学であるにもかかわらず異例のベストセラーとなっていた。あの時の野球部のエースが芸能界デビューして懐メロを現代風にアレンジしてアラフォーを狙ってオリコンチャート入りしている。先ほどの話に絡めるのなら、そんな感じか。
今はその光文社の『罪と罰』の亀山訳を読んでいる。これが上下巻から全3巻になってしまったものの、とっても読みやすい。サクサク読める。え、ドスちゃんってこんなにサクサクだったっけ? サクサク〜とお菓子のCMみたいな感想を思わずもらしてしまう。しかし、不思議なものでどういうわけか読みやすいとかえって不安になる。こんなに読みやすくっていいんですか? そんな感じ。
 
ドスちゃんワールドの作られ方は既存の19世紀のそれまでの文学とはちょっと違うと言われている。深く、面白いだけでなく、芸術形式としても革新的だったのだ。こんな専門用語を覚える必要はないが、ポリフォニー小説とか呼ばれている。あるとき、ある人がこう思ったらしい。「いやードスちゃんの小説は面白いなぁ。」「うんうん」「でもさー」「うんうん」「これなんかちょっと普通の小説となんかちがくね?」「ど、ど、ドユコト?」「なんかふつうだと作者のひとりごとっていうかさー。なんかそいつが全部の登場人物にしろその世界を作ってるって感じぢゃん」「ほうほう」「でもさ、ドスちゃんはさー登場人物がひとりひとり勝手に自分の意思を持ってるような感じがするんだよなー」「へーそうかなーでもなんかわかるかもー」「なんかいろんな視点があるっつーかさーそれでそいつらが作者であるドスちゃんと同じ次元にいるっていうか」「なんかむずかしいなぁ。ひとりでしゃべってるつーか、いろんな声があるみたいなそんな感じ?」「そうそう」「なんかこれに名前付けてみたくない?」「辞書で調べてみろよ」「ええっと…あ、あったあった。えー多声的って感じでいいかなー 音楽用語でポリフォニーだってさ」「なんだよそのポリフォニーって? シンフォニー?」「ああでもそういう感じじゃん?」「でもポリってなんだよ」「うーん」「パフュームにそういや“ポリリズム”って曲あるじゃん? あれと同じ感じかな?」「なんだよそれ。まぁ、しかし、いやードスちゃんの小説は面白いなぁ」(と会話文冒頭に戻りエンドレス。)
一応、ちゃんとしたソースも提示しよう。



「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである」
           (『ドストエフスキー詩学』第一章から  ミハイル・バフチン



ポリフォニーというのは多声的という意味で声楽の用語らしい。モノフォニー/モノローグ/単声の反対。まるで登場人物たちを作者のドスちゃんがコントロールしているのでなく、個々人が意思を持って話し、個々人が考えて生きている。そんな勝手で過剰な人間たちがやんややんやと議論したりして生きている世界の描き方。意識的か無意識的かという以前にドスちゃんの性質に根ざすものだと思うのだが、そのポリフォニー小説の発明は非常に画期的で斬新だった。確かにドスちゃんの小説の持つ鬱屈としていながらも強烈な開放感と不思議な生命力に満ちたダイナミズムが、そのポリフォニックな要素から派生していると言われてみればそんな気もする。しかし、一方で理屈かなぁと思わなくもない(といっても、この理屈はもともと先に引いたミハイル・バフチンというドスちゃん研究者が提唱したもので、今では学術的な領域で文学理論として体系化されている。だからきっと文学部で文学を専攻すると勉強します)これは実際に読んでみなければわからないところ。ドスちゃんに興味を持って読んだ人は、感想を僕と一緒に語り合おうではありませんか。
とか言って、この文章を終わらせるつもりはない。教養主義者ぶって「ドスちゃんくらい読まなきゃいかんぞ!」とも思いません。コスモマナーにしたがって「よかったら読んでみてよー」と言う気もありません。
むしろ、ドストエフスキーなんか読まないほうがいいと言いたい気がする。
ここまで書いてきてなんだけれども、そう言いたい。こんなもん読むな。あんな長たらしい小説を読んだところで得るものは微小だ。読んだところで何も得れないかもしれないゾ。そもそもあんなもの危険だ。ていうか君たちにはまだ早い。十代には有害。または有害の可能性アリ。健康を著しく損ないます。時間の無駄。そんなものにウツツをヌかしている場合かっ。もっと有益なことに時間を使いなさい。意味のある時間の使い方をしなさい。英単語でも覚えなさい。芦田愛菜ちゃんのテレビドラマでも見てなさい。もしかすると身を滅ぼすかもしれないからやめておけ。ダメっ。とにかくダメ。ダメだからダメ。ダメダメダメ。×××。私はしっかり注意しました。
それでも読みたいなら、是非とも読んだらいい。