代々木〜津田沼〜新所沢


先日、久しぶりに代々木の野菜を食べるカレー屋さんCampでカレーを食べた。おいしかったです。
ベジタリアンのメニューがあるかまではわかりませんが野菜が好きな方や、代々木に来たもののどこでメシ食うかわからんという方はどうぞ。野菜なんか食ってられっか肉肉肉みたいなあなたにもガッツリとスペアリブののったBBQカレーなるものもメニューにあったっぽいので肉食系男子/女子もどうぞ。けっこう行列しているらしいけど、ちょっと待てば入れます。
しかし久しぶりに代々木に行ったけど、予備校時代を思い出しなつかしさにひたりました(あまり頻繁に予備校に行ってたわけでもないし、どちらかといえば千駄ヶ谷に近かったのでそっちの利用の方が多かったのですが)。
ひたりすぎて、噂の(?)代々木の新商業施設「代々木ビレッジ」を見忘れた。
でも、あれは確実に僕の求める代々木ではないので行かないと思う(とかいってちゃっかり行ってみると思う)。

土曜の夜は実家の津田沼に。その前に同窓会&新年会&誕生日会。仕事があったので二次会からの参加。
私は駆け出しアマチュアアラサー研究家&ライターなので、ここで一気にアラサーネタを収集してやろうという下心もあったのだが、最終的にはただ普通に楽しんで帰った。まぁ別にそれはそれでいいのだが、今回のことは「アラサー入門」に活かしたいものである。
翌日は新所沢に戻り、友人のウツボさんと飲んだ。
ウツボさんはmixiでつながった人なのだけど、mixi内田樹高橋源一郎小熊英二長嶋有、クアルテート・エン・シー、ロバート・ジョンソンなどなどのコミュニティの管理人だったりとかなりアクティブな人なのでもしかしたら間接的に知っている人がいるかもしれない。僕はそこから本当にたまたま彼の日記等を読みはじめて知り合った。新宿文藝シンジケートのメンバーで、ウツボさんは読書会を主催しているので、月に1回くらいは会う。

最初に駅前の立ち飲み屋で17時前から飲み、最近ウツボさんの読んでる漱石の話などなど。
店を出る頃には店内のテレビで演歌特集が流れていたのでけっこう楽しくそれを見ながら飲んでいた。
演歌ってよく聴くとすごい面白い。そして変である。変であるというか、はっきり言えばアナクロニズムとも呼べるのだろうけど一方的にそう呼びたくない気がする。
あと昔の島倉千代子の歌番組の映像とか流れていて見ていたのだが、歌の間に語りを入れていたり、曲に合わせた豪勢なセットが準備してあったり、昔はいまよりも演歌が民放で流れていたような気がするから覚えているけど妙な寸劇からはじまったりする演歌もよくあった。
非常に構築性が高いというかプログレッシブというか、大衆演劇的というか総合芸術的というか、Mステにあるようなライブ感とはまったく別物の世界観である。当然と言えば当然なのだが。歌詞や歌唱や、あの演歌の世界観はこれからも日本の民衆に愛され続けるのだろうか。
演歌は嫌いじゃないけど、むしろ坂本冬美とか藤あや子とか容姿も含めてかなり好きだけど、さすがにiTunesに入れようと思わない。家で聴こうとも思わないし、テレビで見るのも年末の紅白歌合戦くらいである(若い視聴者を離さないようにだいたいジャニーズとかAKBが演歌歌手とコラボしているのだが、あの年末の光景も今やゆく年の風物詩になりつつある。新時代の日本百景と言っていいのではないか)。演歌は次第に風化していき、我々が年寄りになったら、未来の「懐かしの名曲」みたいな番組では小室ファミリーミスチルが出てくるのだろうか。ちょっと信じられない。などなどと話しながら我々の向かった二軒目はそこから歩いて一分足らずの新所沢のジャズバーSWAN。
SWANではまずコルトレーンの「My favorite things」を聴き、僕がマイルスの『On The Corner』をリクエストした。
最後にウツボさんが最近聴いているというスタン・ケントン楽団の50年代の作品を聴いた。



この頃のコルトレーンは最強なんだけどいつも思うのはマッコイ・タイナーのピアノの粒子が迸っている感じがするのだ。
テクノやハウスミュージック的に音を重ねていくようなピアノの響きが気持ちいいし、エルヴィン・ジョーンズのドラミングも洗練されつつもプリミティブで文句なしにカッコいい。そして何と言っても演奏がアツい。大体のジャズの演奏は気合いが入っているのだけど、ちょっと次元の違うアツさである。そのアツさに僕はたまに疲れてしまう、と余計にひとこと付け足すのでアンチと思われるのだが、コルトレーンは好きですよハイ。



マイルスはなんだかんだこのあたりの作品が一番好き。
ディスクユニオンで働いていたときにはどこかで毎日流してた。
こういう音楽を70年代でやられてしまうとそのあとの人たちは困ってしまうんじゃないかと思う。




リー・コニッツが参加しているらしい。その時は気がつかなかったけど、改めて聴いてみるとこのクールなソロを吹いているのはたしかにリー・コニッツ。と思うけど、そこまで耳がいいわけではないので聴くだけではわからなかった。





そして最後に家に来てもらって、またテテ・モントリュー、モンクなどを聴きながら角ハイボールを飲み、所沢の寒風の中、ウツボさんは帰っていった。

ヘッセとステッペンウルフ

今度、学生との読書会でヘルマン・ヘッセ荒野のおおかみ』を読むことになった。

荒野のおおかみ (新潮文庫)

荒野のおおかみ (新潮文庫)

あのロックバンドのステッペンウルフはこの小説から名前を取ったらしい。
ヘッセとステッペンウルフ。
なにその組み合わせって感じ。
意外すぎる。
香川照之が歌舞伎の家柄だったくらいの衝撃である(みんなそんなことないのか!)。





アメリカン・ニューシネマの代表作『イージーライダー』のテーマソングだった。邦題「ワイルドで行こう!」がナイスすぎる。)



実はヘッセを読むのは初めてだ。
あの『車輪の下』さえ読んでない。という事実が、もともと私がいわゆる「文学少年」ではなかった裏付けであるような気がする。
どうも近寄りがたさを感じていた。合わないんじゃないか。
やがて、この世の中で自分ひとりくらいがヘッセを読まなくても世界は成り立つに違いないと気がつき、このまま読まずに過ごそうと思っていたのだが…
この機会に少し読んでみたかった『クヌルプ』も読もうかなぁと思う。
もし他にオススメがあれば、緩募してます。
できれば短めの。

2012/02/09

・最近買ったCD

愛のかたち

愛のかたち

ポートレイト・オブ・シェイラ

ポートレイト・オブ・シェイラ


職場の近くの西新宿はかつてのレコード店海賊盤屋のメッカである。
未だに小規模ながらそういった店が点在している。
学生時代は、たまに好きなアーティストのライブ音源を求めて、ブート漁りに行った。
最近は、そうでもない。
むしろ、職場近くに、ディスクユニオンでも、タワレコでもいいから出来ないものかと思っている。
歩いて20分足らずでどちらも近所にあるのだけど・・・
でも、休憩中に覗く店もあって、そこも大半がコレクターズアイテムなのだけど(しかも、あんまり聴かないHR/HMとかクラシックロック)、たまに半額セールをしていることがあって、めぼしいものをそのときに買う。
ちなみに二年前くらいにそこでジム・オルークを見たことがある(でもジムを東京で見ることなんてもはや何も珍しくないのだが)。
とかいう瑣末な話はどうでもいい。
買ったのはケイト・ブッシュ『愛のかたち』とシェイラ・ジョーダンの『ポートレイト・オブ・シェイラ・ジョーダン』。
ケイト・ブッシュといえば名曲?「嵐が丘」のイメージしかないのだが、twitterで音楽ネタをよくつぶやくフォロワーの人が矢野顕子ケイト・ブッシュを比較していたり(よく比較されるだろうけど)、ケイト・ブッシュを絶賛していたり、そういえば昨年末にアメリカの雑誌ニューヨーカーに寄稿するアレックス・ロスという人とのインタビューでBjorkもフェイヴァリットに挙げていた(http://www.therestisnoise.com/2011/11/my-favorite-records-björk.html)ことも思い出し、買ってみたらこれが傑作でした。今まで「嵐が丘」のイメージでイロモノ扱いしていた自分が馬鹿でした。猛省。(まぁある意味でイロモノなんだろうけど)



これだけじゃないんです。



これとか



全然イメージと違う。
Bjorkがリスペクトするのもうなづける。

シェイラ・ジョーダンはジャズヴォーカル。
まだ全然聴いていないのだけれど、デューク・ジョーダンの元妻だそう。

二枚はちなみに合わせて1200円と破格だった。


・最近食べたハンバーガ

職場の近くに、高いけれど、フレッシュネスがあって、よく行く。
高いけど、おいしい。
フレッシュネスサラダも高いけど、おいしい。
でも、コーヒーはあまりおいしくない。
というかアメリカンで薄くて好みとはちょっと違う。
昨晩食べたこの写真のハンバーガーも780円くらいした。
でも、ずっと食べたかったから食べました。
やはり。やはり、おいしかった(二回目のやはりに気持ちがこもってますね〜)。
ヴォリューム的にも満足で、私は決して昨日の夜を後悔しません。

アラサー入門  (1)アラサー入門、その前に

職場の予備校の冊子2月号に載せたもの。
内輪ノリな文章なのはそのせいです。
保護者も読むので表現に抑制があったりします(最後のアラサーの説明とか完全に保護者と老齢の講師向け)。

「アラサー入門」は10回〜15回を予定。
これからは私も所属する文藝集団En-Soph(エン・ソフ)のブログサイトが出来上がったら、
そちらに書きたいと思っています。(橋本さん、伶さんお疲れさまです!)
ちなみに本文中のアレックスとは私のことです。
職場でのニックネーム。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


 書き手が不足している。原稿が集まらない、などなどの理由で年度末というタイミングの悪さにも関わらずコスモ通信という世界の秘境に連載をはじめることになった(引き続き原稿超絶募集中。コスモ通信は君を待ってます)。
 タイトルは「アラサー入門」。語呂もよく、読む人の興味も引きそうだと思ったのだ。
 個人情報を晒せば、私は今年29歳。「アラサー」ど真ん中。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない(byポール・ニザン)。
 このタイトルの方針でいけば、たとえ書くネタに困っても、なんでも「アラサー」目線にしてしまえばとりあえずネタになりそうではないか。「アラサーと食」「アラサーと金」「アラサーと恋愛」「アラサーと犬」「アラサーとアラフォー」。万が一ネタがなくなったとしても、コスモアラサークラスタのフェローKさんやK講師に代わりに原稿を書いてもらえばいい。そんなオトナな戦略性まで含むところは、さすがは「アラサー」。30年近く生きてきただけはあるじゃないか。なんてしたたかなんだと読者は舌を巻くに違いない。
 そして「アラサー入門」は、何を隠そうコスモ生の役に立つ実学なのである。将来コスモ生が社会に出たとき、そこにはなんらかの形で我々「元アラサー」がいるだろう。会社の上司や先輩、あるいは取引先の担当者かもしれない。「アラサー入門」を読んでいればきっと「元アラサー」の生態と飼いならし方がすこしでも掴めるはずである(ていうかその頃には「アラサー」自体が死語と化している可能性大)。同時に私自身の「アラサー」入門でもある。時には私から「アラサー」たちの集うアジトに潜入するかもしれない(例:同窓会とか)。アラサーならではのほろりとする心情吐露もあるかもしれない(例:太りやすくなったとか)。この現代ニッポンに生きるさまざまな「アラサー」の実情をレポートしていければと思う。現場主義徹底宣言。
 さて、ここまで「アラサー入門」の能書きについてくどくどと書き綴ってきたが、これらは全くのおまけに過ぎない。本文の主旨はそれらとは別にある。それはこの筆者である私が「アラサー」ではあるものの、決してまだ30歳ではないということだ。 「えwそれさっき上に書いてたし知ってますけどww今年29歳だろww」という感じだろう。しかし今のうちにここを改めて指摘しておきたい。「センター試験に出るからメモしておけ」とうそぶきたいくらいだ。なぜならきっと夏くらいになって、以下のような会話が繰り広げられることを私はすでに想定しているのだ。
 「アレックスっていくつだっけ?」
 「うーん・・・あ、そういえばさコスモ通信でアラサー入門って変なやつ書いてなかった?」
 「ああ、じゃあ30歳か」
 違うわ! ああじゃあ30歳かじゃねえよ! こちとらまだ28歳だわい! うほ!
 というわけで、こういう会話を聞いたら、至急アレ室送りにしてください。さぁ、改めて声に出して言ってほしい。
 「アレックスはまだ30歳ではない」。
 ノートに手書きしながら声に出しながら、脳内に刻み付けてほしい。
 「まだ30歳ではない。ましてや29歳でもない。まだ28歳。今年の秋に29歳…」 
 と、過剰に年齢を意識していること自体がアラサー的ともいえるかもしれないのだった… 
(しかも年度末にそんなこと言っても来年度の新入塾生に私の声は届かないのだった…)


 【※アラサーとは・・・ Around 30の略。30代前後の世代を指す言葉だとか。】

僕とTくんと表参道

本日は休み。
ヘアカットに表参道GOKANへ。
そこのTくんにはもう6年近く髪を切ってもらっている。
こんな感じ↓

彼との付き合いも、もうちょっとで10年くらい経つのではないか。
元々Tくんがアシスタント駆け出しの頃に原宿で声をかけてくれて、そこから撮影等でよくあの界隈に足を運ぶことになり、どういうわけか学生時代には原宿/青山/表参道のカットモデルを数軒掛け持ちするようになった。
当時はしょっちゅう髪を切ったり染めたりして美容師たちに髪の毛をいじられまくっていたが、その分けっこういいヘアケアやトリートメントをしてもらっていて長髪だったけど全然髪が傷んでなかった。何人かの美容師とも仲良くなって、飲みにいったりもした(こちらは学生だったからおごってくれた)。それで気に入られたのか、素人だったけど雑誌のモデルの仕事なんかもまわしてもらった。
今思い返せば地味にいろいろな思い出があるのだけど、美容院としては安く使い回せて、学生としてはただでスタイリングしてもらえる(援助交際みたいだな)素人学生カットモデルはいつの時代もいるものでとくに珍しいことではないと思う。結局、今となってはお客さんとしても付き合いがあるのはもうGOKANだけ、というかきっとTくんが店を変わったら僕もそっちに通うだろうから彼のみである。
そんなTくんも今では中堅スタイリストになったらしく、昨年は結婚もした。
そのうち子供が出来たみたいな話をすることになるのだろうか。
僕の髪の毛を切る人との関係でこういう関係が築ける人はこの先なかなかいなそうな気がする。これは意外に貴重なつながりではないか。
そんなわけで僕は普段めったに行かない表参道へと年に数回髪を切りに行くのだった。

昼は魔がさして入ってしまった表参道のカフェでしょぼいランチセットを食べ(あそこはもう行かない!と思っていたのに・・・)、やたら高かったから無駄に読書を粘り、家に帰ってから蒸し野菜とカレーソースを作って食べた。今日は久しぶりの休肝日だった。
夜はDVDで1970年のアメリカ映画『大空港』を観た。

大空港 [DVD]

大空港 [DVD]

今日のgoogleのトップ画像が偏愛する映画作家フランソワ・トリュフォーだったらしいから、それをみたら寝ようか。

2012/02/05

書くクセをつけたいので、なるべく日記的な文章を綴りたいと思う。
MRBQがiTunesで流れてきた。

昨日は出勤。
15時から生徒と文芸部の読書会。
大体この読書会は生徒が推薦する小説を読むのだけど、今回の越谷オサム『ひだまりの彼女』も生徒のTくんが推薦してくれた。表紙が西島大介

陽だまりの彼女 (新潮文庫)

陽だまりの彼女 (新潮文庫)

新聞の書評で読んで知ったらしい。
ファンタジーな恋愛小説とのことなのだけど、途中までは全然ファンタジックでも何でもない。驚くほど健全でラブラブな恋愛の様子がフラットな文体で描かれる。
僕は二週間前に早めに読み終わってしまったので、読書会の直前で軽く読み返していたらバカップルの日常を読んでいるようで恥ずかしくなった。でも、最初に読んでいたときはそう感じなかった。易しい文体でリーディングに勢いがついてしまう部分もあるけれど、やはりよくプロットが練ってあって表現の細部も読ませるように出来てるのだと思う。ビーチボーイズが出てきたり春樹チルドレンな部分もある。最後の最後で身もふたもないような展開になり、さすがにネタバレするので説明は省くけど、最後は奇妙な味のファンタジーとして終わる。
ほとんどの読者にとって、このラストは想定外だと思う。僕も読書会の生徒も誰一人想定できなかった。呆気ないといえば呆気ない。しょうもないといえばしょうもない。しかし、一方でこんな終わらせ方をしてしまうのもなんだかすごいような気がしてくる。そんなラストなのだ。
この作品は序盤から初恋が成就する物語なのだけど、女の人はそういう男の恋愛願望をどう考えているのだろうか。村上春樹の『国境の南、太陽の西』も初恋が物語の中で重要なファクターとして現れる。たしか上野千鶴子斉藤美奈子か忘れたけれどもフェミニズム色の強い論客はそんな男の夢想には付き合ってられないまったく春樹はいつもこうだ的にdisっていたような気がする。うろ覚えでしかないので、あまりツッコンだことは書きたくないが、でも、どちらかというと一般の女性だってそんな男のくだらない恋愛願望にはついていけないと思っているのではないだろうか。
僕もピンとこない。
十代でまだ交際経験のない男の子なら初恋成就を夢見るかもしれないなとは思うけど。
でも宣伝文句として『ひだまりの彼女』は女子が男子に読んでほしい小説No1だそうだ。だから気になった。まぁ、それは単なるキャッチコピーに過ぎないのだろうけれど。


夕方からは大学生4人と職場の近くの居酒屋で飲んだ。
元コスモ生Yくんが今月末から英国留学に行くので一応そのお祝いを兼ねた飲み会である。当初は元コスモ生のHくんとYくんとの三人だったが、Yくんが大学の友人をふたり連れてきた。
予備校に勤めているのでOBOGら大学生になった学生と話す機会は一般の勤め人より多い方だけど、予備校出身外の大学生と話す機会はさほどないので面白かった。コスモで関わりの強い生徒は普通一般の学生と毛色が恐らく、多少違うので。しかし、最近若い人と飲むとおっさん臭くなった気がしてるから注意したい。仕事の影響があるのかもしれないが。
二次会にはYくんとHくんと我が家へ。Yくんが連れてきた友人二名には申し訳なかったけど、一次会で別れてもらった。
まぁYくんとはしばらく飲めないので三人で飲もうということになったのだ。
さすがに家に5人も泊まれない。
最近よく知人らを連れて行く近所のジャズバーはライブをしていたので入れなかったので、家で飲むことにした。
夜も深くなって我々はビートルズホワイトアルバムを聴いていた。
やっぱりホワイトアルバムはすごいなぁ俺はポール派だジョン・レノンもそりゃいいけどとか、当たり前すぎることを言いながらサタデナイトは過ぎていった・・・

私とドスちゃん

職場である某予備校の冊子に書いた文章を晒します。
高校生年齢を対象に文章を書いてます。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


十年ぶりにドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいる。
ドストエフスキー? なにそれおいしいの?」(名前からするとまったくおいしそうではなさそうだけど)という人もいるかもしれないので説明すると、ドスちゃん(以下敬意をもってドスちゃんと称する)は昔のロシアの作家で古今東西の世界文学の頂点に君臨する巨人である。ググって画像でも見てもらえればわかるが、まずはなんといってもヒゲがすごい。いかにも巨人然としている。ヒゲがすごいのだが顔はちょっと寂しそう。
Wikipedia日本語版でその生涯を読むと、賭博にハマって、借金して、締め切りに追われ、忙しいから口述筆記で作品を書いていたりする(しかもその速記係に手を出している)。ちょっとどころか、かなりだらしがなさそうで、ええ本当に文学の巨人なのこのおじさん?って感じだ。(「でもちょっとギャップ萌えかも!」と思ったあなたはすでにドスちゃんという山脈のふもとにいるのだよ…)
私の初ドスちゃん体験は18歳。知人(現代文講師、当時60歳)が『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』を薦めてくれたのだ。ドスちゃんの名前は知っていた。しかし、その名前の重厚感に畏怖の念を抱いていた。一方で気になる存在であった。わかりやすく言えば、先輩のエースに恋する野球部1年の女子マネージャーみたいなもので苗字で名前を呼ばれるだけでもうドキドキというやつである(すみません。凡庸な例をとりあげたかったので敢えてポリティカルコレクトネスに反しています)。まず私は思い切って薄手のためまだ手軽そうに見え、しかも父親の本棚にあって買わなくてすんだということから『地下生活者の手記』を読んだ。次に『罪と罰』。次に『カラマーゾフの兄弟』。大学生になり『白痴』、『虐げられた人々』、『貧しき人々』、『悪霊』(実は『悪霊』は半分読んで挫折してしまった!これはちょっと変な小説なんですというエクスキューズ…)…と時間を見つけてはコツコツとドスちゃんの主要作品を読んでいった。もちろん未熟で妙に背伸びした私にドスちゃんの作品を読みこなせるわけがない。アリが象に、芦田愛菜ちゃんが白鵬に挑むようなものである(芦田愛菜ちゃんのプロ根性なら横綱にも勝ってしまいそうだな…)。しかし、夢中になって読んだ。芦田愛菜ちゃんであるところの私はマルマルモリモリ読んだ。とにかく読んで読んで読みまくった。読みまくりたかった。人間を知りたい。世界が知りたい。自分を知りたい。青臭い若者特有の好奇心があったことは否めない。何かに対する答え、真実めいたものがドスちゃん作品にはあると思ったのだ。読んでいるうちに気が付いたのは、ドスちゃん作品は抜群に面白いということである。深いのに面白い。たいがい世の中の「深そう」なものは面白くないのが相場だ。そういえば校長先生の話とかも「深そう」だったが、たいてい面白くなくて、私は一度もまともに聞いたことがない(というか実際は深くもなければ面白くもないのだが)。そのため「深そう」って深くない、ということに気がついてしまったのである。ああこれは「深そう」だな、まじめな顔してるぞと思うともう退屈してきてしまうのだ。でも、ドスちゃんは違った。深いのに、あるいは深いから面白かった。
 しかし、やたらと面白がるのが気の毒なほどドスちゃんワールドの住人たちは暗い。暗いだけでなくロシアだから超寒そう。暗いし寒いし、鬱屈に生きている。生きることについて悩みまくっている。悩んで悩んで頭の中がいっぱいになる。いっぱいになった悩みが充満して噴き出す。興奮して遂には狂ったような演説をはじめてしまう。しかしその姿が時折、妙に輝いているようにもみえる。苦しみと生きることの喜びが渾然一体となっている。そんな過剰すぎるほど過剰な人たちの住む世界がDCW(ドスちゃんワールド)だった。そこはTDL東京ディズニーランド)よりもずっと私を魅了した。
時は流れ…ドスちゃんとのあの蜜月を過ごした数年後…私とドスちゃんはお互い別々の道を歩んでいた。私の知らぬところでドスちゃんは思わぬ脚光を浴びていた。古典新訳ブームの中、光文社で亀山郁夫の新訳が出たのである。しかもドスちゃんの代表作『カラマーゾフの兄弟』の新訳は数十万部売れ古典文学であるにもかかわらず異例のベストセラーとなっていた。あの時の野球部のエースが芸能界デビューして懐メロを現代風にアレンジしてアラフォーを狙ってオリコンチャート入りしている。先ほどの話に絡めるのなら、そんな感じか。
今はその光文社の『罪と罰』の亀山訳を読んでいる。これが上下巻から全3巻になってしまったものの、とっても読みやすい。サクサク読める。え、ドスちゃんってこんなにサクサクだったっけ? サクサク〜とお菓子のCMみたいな感想を思わずもらしてしまう。しかし、不思議なものでどういうわけか読みやすいとかえって不安になる。こんなに読みやすくっていいんですか? そんな感じ。
 
ドスちゃんワールドの作られ方は既存の19世紀のそれまでの文学とはちょっと違うと言われている。深く、面白いだけでなく、芸術形式としても革新的だったのだ。こんな専門用語を覚える必要はないが、ポリフォニー小説とか呼ばれている。あるとき、ある人がこう思ったらしい。「いやードスちゃんの小説は面白いなぁ。」「うんうん」「でもさー」「うんうん」「これなんかちょっと普通の小説となんかちがくね?」「ど、ど、ドユコト?」「なんかふつうだと作者のひとりごとっていうかさー。なんかそいつが全部の登場人物にしろその世界を作ってるって感じぢゃん」「ほうほう」「でもさ、ドスちゃんはさー登場人物がひとりひとり勝手に自分の意思を持ってるような感じがするんだよなー」「へーそうかなーでもなんかわかるかもー」「なんかいろんな視点があるっつーかさーそれでそいつらが作者であるドスちゃんと同じ次元にいるっていうか」「なんかむずかしいなぁ。ひとりでしゃべってるつーか、いろんな声があるみたいなそんな感じ?」「そうそう」「なんかこれに名前付けてみたくない?」「辞書で調べてみろよ」「ええっと…あ、あったあった。えー多声的って感じでいいかなー 音楽用語でポリフォニーだってさ」「なんだよそのポリフォニーって? シンフォニー?」「ああでもそういう感じじゃん?」「でもポリってなんだよ」「うーん」「パフュームにそういや“ポリリズム”って曲あるじゃん? あれと同じ感じかな?」「なんだよそれ。まぁ、しかし、いやードスちゃんの小説は面白いなぁ」(と会話文冒頭に戻りエンドレス。)
一応、ちゃんとしたソースも提示しよう。



「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである」
           (『ドストエフスキー詩学』第一章から  ミハイル・バフチン



ポリフォニーというのは多声的という意味で声楽の用語らしい。モノフォニー/モノローグ/単声の反対。まるで登場人物たちを作者のドスちゃんがコントロールしているのでなく、個々人が意思を持って話し、個々人が考えて生きている。そんな勝手で過剰な人間たちがやんややんやと議論したりして生きている世界の描き方。意識的か無意識的かという以前にドスちゃんの性質に根ざすものだと思うのだが、そのポリフォニー小説の発明は非常に画期的で斬新だった。確かにドスちゃんの小説の持つ鬱屈としていながらも強烈な開放感と不思議な生命力に満ちたダイナミズムが、そのポリフォニックな要素から派生していると言われてみればそんな気もする。しかし、一方で理屈かなぁと思わなくもない(といっても、この理屈はもともと先に引いたミハイル・バフチンというドスちゃん研究者が提唱したもので、今では学術的な領域で文学理論として体系化されている。だからきっと文学部で文学を専攻すると勉強します)これは実際に読んでみなければわからないところ。ドスちゃんに興味を持って読んだ人は、感想を僕と一緒に語り合おうではありませんか。
とか言って、この文章を終わらせるつもりはない。教養主義者ぶって「ドスちゃんくらい読まなきゃいかんぞ!」とも思いません。コスモマナーにしたがって「よかったら読んでみてよー」と言う気もありません。
むしろ、ドストエフスキーなんか読まないほうがいいと言いたい気がする。
ここまで書いてきてなんだけれども、そう言いたい。こんなもん読むな。あんな長たらしい小説を読んだところで得るものは微小だ。読んだところで何も得れないかもしれないゾ。そもそもあんなもの危険だ。ていうか君たちにはまだ早い。十代には有害。または有害の可能性アリ。健康を著しく損ないます。時間の無駄。そんなものにウツツをヌかしている場合かっ。もっと有益なことに時間を使いなさい。意味のある時間の使い方をしなさい。英単語でも覚えなさい。芦田愛菜ちゃんのテレビドラマでも見てなさい。もしかすると身を滅ぼすかもしれないからやめておけ。ダメっ。とにかくダメ。ダメだからダメ。ダメダメダメ。×××。私はしっかり注意しました。
それでも読みたいなら、是非とも読んだらいい。